灰十字 ─ Cros Liath ─

かたはら


「天導、今日はもういい。おまえは研究棟に戻れ」
「はい。ありがとうございます。検証結果は明日にもご報告を……」
「頼む」
 天導天使は、はんなりと笑んで軽く頭を下げた。
「それでは、失礼いたします」

 整然と片付けられた机に向いながら小休止を取っていた上級天使は、先刻の会話を反芻していた。
 天導を返してしまったので、ひとを呼びにやることができない。
 ティーカップを置き、淡い金髪に指を滑らせると、かれは席を立ち、執務室を後にした。

     *

 落ちてきた日の差し込む廊下を歩いてゆく。道の先を等間隔に、澄んだ朱金の帯が照らしている。
 自分の体と背負った翼が、歪んだ十字を象る。

 上級天使は、半刻ほど前に自分が散会を宣言した会合の間の扉を開けた。部屋は薄暗く、テーブルを囲んでいた幹部たちの姿は既に無かった。

 ふと気づく。
「……誰だ?」
 視界の端、奥の席に影がある。上級天使は瞳を細めた。
 偽翼の大きさと席の位置から推測をする。
「十二号か?」
「……」
 誰何の声に、影は身じろいで顔をあげる気配を見せた。
 上級天使は壁際の長椅子に腰をおろした。

「こんなところで居眠りか」
「誰……」
「……おまえの上司だよ」
 酷く掠れてはいるが、確かに十二号の声。
 かれはぎこちない動作で振り向いた。
「上級、天使様」
「……具合でも悪いのか」
「大丈夫です」
 暗がりに慣れてきた目に、十二号が力無く笑むのが見える。
 乱れた黒髪に縁取られた顔が、浮き上がるように白い。
 申し訳ありませんと言って、かれは自分の体を抱えた。

 思えば、会合の折も集中力が散漫だった。
「おまえのことは一号から聞いている。無理をしてあとから寝込めばおなじことだ。 つまらぬ会議に、不調をおしてまで出てこいとは言わぬ。わたしが寝込みたいぐらいだよ」
「……」
「冗談だ」
 上級天使は、唇を歪めて笑った。

     *

 沈黙の帷が降りた。
 会合の間は、再び黄昏の闇に沈んだ。
 十二号は話すでも立ち上がるでもなく、その闇に沈んでいる。

 上級天使は軽く息をついて、足を組み直した。
「どうする。医療班を呼ぶか。わたしではなにもしてやれぬ」
 問うように目をやると、黒い虚(うろ)のような瞳がひたと据えられていた。

 十二号は、視線を据えたまま、のろのろと腰を浮かせて口を開いた。
 早口につぶやく。
「何だ」
「隣に掛けてもいいですか」
「──」
 訝る上司の答えを待たず、十二号は腰掛けた。
 瞳を見開き、割り込むように上級天使のすぐ横に。

 座りざま、十二号の偽翼は上級天使の肩を打ち、そのまま外れた。
 上級天使は面喰らい、十二号を凝視した。
 隣の男は、酷く震える体をこちらにびたりとくっつけた。

 がたがたという身震いが伝わってくる。
 心なしか、体がひやりと冷たい気がする。
 押し殺したような呼吸が聞こえる。
 その息も震えている。
 冷や汗に髪を貼りつかせた横顔は、どこも見ていないようにも見える。
 上級天使は、この状況をどうしたものかと考えた。
 すぐさま居づらくなってくる。他人と触れあうことに慣れてない。

「ご無礼を……申し訳、ありません。誰かに……どうにも……」
 辛うじて言葉に聞こえる声で、十二号がつぶやいた。語尾は聞き取ることがままならなかった。

 この男も、普段見ている限りでは、自分とおなじように、他人を極力避けるような様子があった。 ひとあたりはそれなりにいいようだが、馴れ合わない。踏み込まない。

 体の繋がった兄弟を、自分の心臓と他人の手によって失ったという傷が、今も昏く口を開けているのか。
「病み、か」

     *

 震える呼吸に、嗚咽が混ざり始めた。
 十二号は上級天使に体を寄せたまま、しかし寄り掛かるでもなく、自分の胸を抱えている。
 塞き止めるものが壊れたように、涙が次々と頬を滑り落ちてゆく。絞り出すような声で、兄さん、と繰り返す。
 普段の様子からはとても想像がつかない態で、かれは子供のように泣き続けた。
 上級天使は慰めるでもなく、ただ耳を傾け続けた。

 隣で身を震わせるのは自分のように思えてきた。
 自分が泣くかのようだった。
 触れあっている部分から、自分が溶け出すようにも感じる。

 十二号が泣くにまかせて、上級天使はひとり、自らの思考の渦に身を投じていた。どれほどの時間が過ぎたのか、ほんのひとときだったのか。我に帰ると、隣でしゃくりあげる声が耳に飛び込んだ。

 すこし落ち着いたか。そう思い、ちらと顔を覗き込む。
 十二号は、暗がりでもそうとわかるほどに赤くなった目許を拭っていた。
「────」
 上級は不覚にも吹き出した。

 自分達の状況がおかしくてたまらなくなってくる。
 突然くつくつと笑いはじめたかれの様子に、十二号も自分を取り戻す。
「……上級天使様?」
「悪気は無い。すまぬ」
「こちらこそ、あの……」
「────」

 考えてもみろ。
 いい歳をした男同士が寄り添って椅子に腰掛けて。
 ひとりは子供みたいにそんな赤い顔して泣いて。
 この上級天使の隣で遠慮も無くぼろぼろ泣いて。

「上級様?」
「天導には見せられぬ光景だ!」
「……」
 上級天使は長椅子から立ち上がる。
 十二号は上司の重い翼に手をやり支えた。
「落ち着いたようだな。長居をした。わたしは自室に戻る」
「コリエルの誰かにご用がおありだったのではないですか。わたしがお呼びしましょうか」
「おまえがそれを言うのか。偽翼が落ちている、忘れぬようにすることだ」
 十二号はばつが悪そうに頭を下げた。

     *

「本当に申し訳ありませんでした」
 年相応の表情を戻した十二号は繰り返した。
「構わぬ。口外もせぬ。おまえも言うな、団員どもに変に勘ぐられては堪らぬ」
「承知いたしました」
「おまえに関して、教団内でよからぬ噂を耳にする。問題があるなら天導か医療班に相談をすることだ」
「御意」
「……明日の朝でいい、一号にわたしの執務室に出向くよう伝えろ」
「はい」

 上級天使は大きな翼を翻し、十二号を残して先に会合の間を出た。
 窓の外はもうすっかりと日が落ちており、廊下には蝋燭を模した明かりが灯っている。

 教団の上層部しか出入りをしないこの階は、いつでも、とても静かだ。
 こつこつという無機質な足音があたりに張りつき、散ってゆく。
 歩きながら、白い法衣の胸に手を当てる。


 上級天使は、足早に自分の部屋を目指した。


了


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